昭和五十三年四月二十八日 朝の御理解

御神訓 「一 障子一重がままならぬ人の身ぞ。」


 日田の堀尾先生の御信心の根本は、この御教えからあの日田の御ヒレイが輝いたと言われておりますね。
 先生のお話を頂くと、必ずこの「障子一重がままならぬ人の身ぞ」と、説いておられました。
 真実、私どもが此処のところの信心が頂けたら、縋らずにはおられん。縋るからには正していかずにはおられんということになるのです。
 自分で、言うなら我力ですね、自分の我力でなそうとする。我慢我力では、おかげになりません。
 神様のおかげでさせて頂く。もうここに徹底することです。
 神様のおかげでさせて頂く。
 これは、いろんな場合に直面する時に、いよいよ双手を挙げて神様の前に無条件降伏とでも申しましょうか。
 私は、そういう姿にならなければお道の本当の信心は判らないと思うです。
 まあだ、自分の才覚、自分の知恵、力というものを頼りにしとる間は、本当のものは生まれて参りません。
 本当に、「障子一重がままならぬ人の身」ということが実感として判る時に、此処一寸、例えば動かせて頂くでも、願わずにおられん、縋らずにおられん。
 私は、まだ椛目時代でしたけれども、昼まで御用を頂いてお昼に立たせて頂こうと思うて、此処を立とうとしたところが、どっこい、足が、全然力が入りません。
 当時のお広前は、ご承知の方もありましょうけれども、この御結界のすぐ後ろがこのように一段低かった。それで、此処をこう押してから下の方へ降りましたけど、もうどうすることも出来ん。
 柱にしがみついてから一生懸命立とうとするけども出来ない。
 本当に「来るものが来たな」と、やっぱ思いましたですね。
 もう本当に、例えば、立つとか歩くとか言ってますけれどもね、神様のおかげを頂かなければ、立つことも、言うならば、歩くことも出来んのが私達なんです。
 それを、私が動いとる私が立っとる私が歩いとるというところに、慢心があると思うです。
 言うならば、思い上がり、人間の思い上がりがあると思います。もちろん、神様がご覧になった思い上がりです。ね。
 本当に、そういうわけで私が歩かせて頂くということが、本当に有り難いです。
 まあ、私が歩くところちゃ、まあ何回か私の居間から此処まで、幾曲がりかして出て参りますわけですけども、その時にも実感として歩かせて頂いとるということが、もう本当に有り難いです。
 それは、やはり過去に歩こうとして歩けなかった、立とうとして立てなかったということから究めたものです。
 「神様のおかげを頂かねば立てんのだな」と、ですから、もう本当にお礼の対象にならないものは無い。
 本当に、「障子一重がままならぬ人の身」である。
 その自覚に立って、それでも歩きたい、それでもやっぱりああしたいこうしたいという、また、ああ、ありたいと思う。
 そこに、願わずにはおられない。
 「お前の力でやれるなら、いっちょやってみたら良い」と、やってみて、行き詰まって、本当に自分の力というものに過信しておった。ね。
 「まあだ、私は腕でやる」と、「私の力でやる」と、「私の財力で」と、まあ、いろいろ言うたり思うたりしましょうけれども、いよいよになってみた時に、いわゆる自信喪失ということになるのです。ね。
 本当は、だから、信心によって、教えによって、その自分の自信というものが無く  なってしまうところから、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんということになる。  もう神様にお縋りするより外に無い。そこから、一切が神様のおかげということになるんです。
 誰よりも、だから、そのおかげを思う実感というのが、広くて大きくて強いわけです。ね。
 そこに、まあ例えば、堀尾先生の御信心があったと言われております。
 昨夜遅う、十一時半頃だったでしょうか。大阪の方の或る先生のお届けがあった。 耳の後ろに何かこう腫れ物が出来て来た。気にも止めてなかったけど、あんまり段々、グリグリになって腫れるから病院に行かれた。
 ところが,悪質の肉腫の類だということが判った。
 もう、教会全体が、もう本当に真っ暗になる様な思いをされたということでございます。
 そのお届けを、私、させて頂いて、御神米を下げさせて頂きながら、神様にお願いさせて頂いとったら、あの「おかげにせず。力にせず。」ということを頂いた。
 おかげを頂きたいというならば、言うなら、病院でも良かりゃ医者でも薬でも良いわけです。
 ただ、「どうぞ、おかげを頂かせて下さい。」というだけでおかげを頂くんだったら、それこそ「苦しかった、本当にどうなることだろうかと、一同が心配をした」ということだけにしか過ぎない。おかげを頂いても、それだけのこと。
 だから、おかげではなくて、それによって力を受ける。教会長として、やはり力を受けなければ、人は助からん。
 昨日、一昨日の研修の時に、壱岐から来とります山本先生。もう、この人は、なかなか発表いたしませんです。
 それで、もうこの頃私は発表せろとも言わんですけども発表したところで一言しか言わんです。やっぱ昨日、一昨日も一言。
 けども、素晴らしいこと、「そげな一言なら良かの。」と言うてから、まあ、言ったことでしたけれどもね。
 これは、昨日、一昨日の御理解が芯を言うと、このことだったんだと思うのです。今の教主様のお言葉、教主様のお言葉「出来てくることがおかげじゃからな」と。
もう少し詳しく言うと、「もう一切の事柄、一切の出来事というものが、もう全部がおかげじゃからな」と、こういうことなんです。
 昨日は、だから、先生のお取次を願った人に申しましたけれども。
 本当に日頃合楽の信心を頂いておかんとね、なら、こういう素晴らしい御教えがあるけれども、ピンと来ないです。日頃、信心を頂いておかんと。
 合楽で例えばどういう様なことが起こっても、合楽信心、言うなら合楽理念なら合楽理念を一通り勉強しておくというかマスターしておくとですね。
 「はあー、困ったことが起こった。お願いいたします。」と言うて、参りましてもです。それこそ、御神願として有り難く頂かねばいけん。神愛ですよと。
 いよいよ、あなたに力をつけて下さろうとする働きですよと。
 お徳を下さろうとする神様の、言うならば願いが、そういう形に表れてきておるんですよということを、あらゆる角度から頂いておるですから。
 よって、そのお言葉一つを頂いた時に、「出来てくることがおかげじゃからな」と頂いただけで、ね、本当にハッと気が付くわけです。「はあー、おかげ」と。
 これによって、いよいよ力を頂く。
 だから、起きてくるそのこと自体が神愛と言うたり、おかげだと言うたり、御神願と言っただけではね。それを本当におかげを頂いてみて、「ああー、やっぱり御神願だったな」と判るんです。ね。
 そのことを通してです、なら、力を頂いてはじめて、私はあの時に力を受けたんだな、やはり力を下さろうとする神愛以外にはなかったなと判るんです。
 いろんな出来事、言うなら、出来たことが皆おかげだと、出来たその時点でね、おかげと頂くためには、その内容が良く判っており、体験しておらなければ言えないことなんです。
 出来たことが、ね。
 例えば、医者が助からんと言った様な病気になったといたしましょうか。
 そのこと自体は、もう大変な難儀なんですよね。これで一命を落とさなければならんかも知れん、かも知れん程しの大変なこと。
 そこで、神様にお縋りをする、お願いをするという手だて。ここまでならね、なら、 日頃教えを頂いとかんでも、ただ悲しい時の神頼み的な頼みだけれども、お願いをすることがある。
 ところが、日頃信心を頂いて日々体験させて頂いておると、「はあー、神様がこのことで、この出来事で、どういうおかげ、いわゆる、お徳というおかげ、力というおかげを下さろうとしておるか判らん」という、心の底に何かそういうものが頂けて来る。ゆとりが出来て来る。ね。
 だから、この事柄でいよいよお徳を受けさせて下さい、力を受けさせて下さい。という信心。ね。
 そしてはじめて、なるほどそういう医者も助からんと言う様な病気になってみて、人間の無力さというかね、それこそ薬石効無しということになってはじめて、人間の無力さということが、医者の薬でも、医者の力でも、薬の力でもどうでも出来ない。      いわゆる、「我れ、無力であり」、やはり「障子一重がままならぬ」人の身である。
 ところがそういう時に、私どもはです。力を受ける時であり、お徳を受ける時だということなんです。
 そのことが、日頃判っておきますとです。なら、この教主様のお言葉を頂いた途端に、元気が出るでしょうね。
 「出来たことが、出来てくることが、おかげじゃからな」と。
 「はあー、そうです。」と、平身低頭したいような思いがするです。ね。
 日頃信心が出来ません。日頃力をを受けたい、お徳を受けたいと思うけども、なかなか出来ませんけれども、ね。
 ここで一徳受けさして頂こう、力を受けさして頂こう。
 力を受けることによって他人が助かることにもなるという、これは教会長の先生ですから、そういうことにもなってくるのです。
 「障子一重がままならぬ人の身」、ね。もう究めに究めた言葉ですから、それが自分のものになる時に、なら、当時日田にああいう御ヒレイが輝いた様に、「もう本当に神様、あなたのおかげを頂かなければ出来んのですから」と言うわけです。
 だから、神様がおかげを下さる筈ですよ。ね。
 これからこれまでは私がします。後は出来んところはお願いします。
 車を引っ張っとるなら、後押しを神様お願いします。
 といった様な程度のことでは、後押し程度にしか、神様は働きなさらん。
 けれども、丸とそのまま、あなたのおかげを頂かなければ出来ることではないという信心が出来た時にです。はじめて、事が起きた時に、出来事があった時に、それをいよいよ徳にしていくことが出来る。力にしていくことが出来る。
 なるほど、「出来たこと全てがおかげじゃからな」ということになって来る。
 一切が神愛、一切が神様の御神願の表われだと判っておるだけでは、なるほど御神願じゃったなあ。なるほど神愛であったなあ。なるほど出来事が出来て、しかも、それが難儀な出来事であればあるほどに、力が頂けれるもんだ、おかげが受けられるもんだということになって参りますから、いよいよおかげも大きい。力も大きい。
 本当ですよ、もうこれは。あの、自分で立っとるとか、歩いておるとかというのではない。
 おかげを受けて立っておるのであり、歩いておるのであるということが、本当に判ってくるところからです。此処一寸動くでもあなたのおかげを頂かなければ、出来ることじゃないことが判る。判るから、それだけ有り難いということになる。
 どんなことであっても、「我れ無力である」という自覚と、「障子一重がままならぬ人の身」であるということが判らせて頂くところから、願わずにはおられん。縋らずにはおられん。
 そこで、願う姿勢、縋る姿勢が求められる。ね。
 そこに、改まらずにはおられん。研かずにはおられない。
 そこから、障子一重がままならんどころではない、それこそ、夢にも思わなかった様なおかげの展開となって来るわけです。ね。
 どうぞ、教主様のお言葉、もし教主様のお取次を頂いて教主様が「出来て来たことがおかげじゃからな」と仰せられた。その時、「はあー」と、それを頂けれるだけの信心を頂いときたいですね。                     どうぞ。